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1、ウラン残土の放置発覚と現場案内から18年
お忙しい中、大勢の皆さん方が集まって頂きましたことに、心より感謝申し上げます。
このウラン残土が発覚いたしましてから、もうすでに18年経過いたしました。本日、ようやく、最後の2袋をもって目的が達せられたことについては、皆さん方支える会の精神的なあらゆる困難に対する私への支援によって、きょうがあることと感謝しております。
振り返ってみますと、ちょうど18年前の1988年の盆の15日でしたが、残土問題が発覚いたしまして、現地にマスコミの方やいろいろ視察に現れました。そして、村の区長さんが山に上がって案内したりいたしましたけれども、詳しいことはわからないということで、一番詳しいのは榎本だということになりまして、私が盆の16日に呼び出しされました。
NHKや日本海新聞の記者たちが私に「案内をしてくれ」ということで、現地に上がりましたところ、きょう視察いたしました下一号坑 ― これは採掘坑道ですが、その採掘坑道に入る道は、草がぼうぼうと生えていましたけれども ― その草が全く手つかずで道も何にもついていないため、私が現場に案内いたしました。
それで、NHKが一番のセンセーショナルな坑道がきっちりと穴を空けた状態のまんまを報道しますし、日本海新聞も新聞で特ダネとして出しましたけれども、その時点で何で動燃が一番の鉱石を掘り出した現場をマスコミの方に公開しなかったかということに、私は強い疑念を抱きました。と同時に、私がたびたび入退院を繰り返したり、そして村の何人かが亡くなったり、あるいはいろいろな病気が発生したのも、この残土の影響だなということを直感しました。
動燃が一番皆さんに公開しなければならない採掘坑道を伏せて、そして逃げてしまったという状況を見てから、村の人や私のいろんな病気がウランで出たという自分の体が覚えている体験をもとに、「よし、それなら、がんばらなくっちゃ」ということを強く思っていたところに、皆さん方が私の家に来られまして、「応援するから、地域をきれいにするためにがんばりなさい」と強い支援を寄せてくれました。
2、ウラン残土撤去を支えた対策会議と市民グループ
そして、市民グループの皆さん、マスコミの方々、それから対策会議の松永(忠君)県議などがんばって下さいまして、村の交渉を松永さんや対策会議が受けられた。いろんな環境のデータについては、ここにおられる小出(裕章)先生とか、大阪大学の福島(昭三)先生とか、優秀な先生が市民グループと連携して独自の調査で学術的にきちっと押さえて下さり、おかげでどこに出しても恥ずかしくない理論を私が携えまして、対処してきたわけです。
それから住民の健康については、阪南中央病院の村田(三郎)先生が現地に来られて、いろいろな病理について診察して下さいました。何らかのかたちでウランの影響が懸念されるという診断で、広島の原爆と同じ(ブラブラ病)の症状も心配される状況だったかと思います。
こうして、理論的なことについてはいま挙げた科学者たちと連携した市民グループが、またウラン残土撤去の交渉については対策会議が担当するという、こういう二本の柱でもって対処してまいりました。そのおかげで、当時の動燃人形峠事業所の早川倫仗所長と方面自治会の伊藤隆治区長が1990年8月、対策会議の松永忠君議長と東郷町の前田正恭町長の立会いのもと、ウラン残土の撤去協定書を締結いたしました。
その協定書がなかったなら、きょうがあり得なかったかと思います。きょうはここに出席しておられませんけれども、その松永さんの努力があったればこそ撤去できたということを、私はいつも心の中で考えています。ウラン残土の撤去訴訟も協定書があったればこその裁判でしたし、ここにおられます弁護士の水野先生と妻波先生の支援もそれを背景としたものでした。
私がいつ行っても、対策会議と一緒に交渉に行っても、動燃(核燃)は「努力してます、努力してます」というのが口癖で、実際問題努力してるかと思ったら、その交渉の時の口先だけで、何ら努力してなかった、というのが現実です。私も取らせなあかんということで、自治会訴訟と並行して独自の裁判にも踏み切ったのですけれども、裁判をするについても前知事の西尾邑次さんでは全く歯が立たなかったと思う。
しかし、時は流れて片山善博知事になりました。それで片山知事が方面に視察に来て、核燃は言ってもいうこときかん、それなら県が支援してやるから裁判をしたらどうか提案された。ところが、片山知事が「皆さんどうですか」と言われまして、村の人がシーンとなってしまったなかで、私が「やります」と大きい声で発言した。それですんなりと「やろう」ということに決まりまして、長い裁判の結果、最高裁で「撤去しなさい」という決定が与えられて、きょうに至ったわけです。
3、「捨てる神があれば助ける神がある」の巡り合わせ
ここに至る過程におきまして、長い間の抗争の最中にもう一つ、いまはなくなりましたけれども、清水滋雄という区長がおりまして、その方が「もう、私は年だけえ、オレの土地に仮置きしてある残土をどうしても撤去させな、死んでも死にきれん。おまえに土地をやるから、撤去のためにがんばってくれ」、と私に土地を譲ってくれました。
こうして、私がその土地を撤去のために譲ってもらったもんですから、今度は市民グループの代表の石田さんあるいは皆さんの支援で訴訟をやって勝ち取ろうよ、と暖かい言葉に励ましていただいて、ここにおられます妻波先生、水野先生の支援をいただいて裁判を行いました。
ところが、その過程で向こうも村の中を分裂させ、バラバラにして村の組織を破壊する作戦に出て、地権者の一部の人を巻き込んだり抱き込んだりして、私に対抗させるという手に出てきたもんですから、なかなかうまくまいりませんでした。その結果、延々と土地争いに引きずり込まれちゃって、肝心の撤去にはなかなかうまく焦点が合わんかったですけども、「捨てる神があれば助ける神がある」です。
ようやく私の訴訟の最後になってから、隣村の財産区の委員長をしていた人に「ひょっとしたらこの人、資料持っとりゃせんじゃろか」と思ってですね、電話したら、明くる日の朝、「資料があるよ、すぐに取りに来てください」ということですから、これはもっと早うわかっとたら、全く違った展開になったかもしれないと思いましてですね。それで、その資料をいただきましたところ、私が主張してきた図面と全く同じ図面でした。
それを核燃が隠していながら、その図面で貸借契約を結んでおきながら、その大事な図面を隠して、そして延々と引きずり回して、私の訴訟で延々と時間稼ぎをした。その間に別件の自治会訴訟で和解を成就させてですね、それで残土撤去を挫折させてやろうという姑息な手段で、核燃が向かってきたわけです。けれども、村の人もやっぱり榎本の主張が正しいなということでですね。
4、片山知事の英断と市民グループの支援に感謝
結果として、290立方メートルはアメリカに行きましたが、その前段の自治会訴訟の控訴審の段階では、290立方メートルは撤去するけれども残る2710立方メートルを地元置き、という和解案を提示してきました。挙げ句の果ては、それを村の投票にしてですね、それで2710立立方メートルを地元置きにしてやろうという魂胆でした。そのために一部の人間が暗躍したり、いろいろしたりしましたけども、まあ良識の村の人が私を支援してくれたおかげで、3000立方メートルを全量撤去するということが決まりました。
その後、3000立方メートル撤去が最高裁の決定で確定しました。しかし、どこまでもずるい核燃は、方面地区のウラン残土堆積場からわずか300メートルの麻畑地区のウラン残土堆積場に3000立方メートルを移して、最高裁決定をごまかそうとしたものの、鳥取県の県立自然公園条例に阻まれて、これまた頓挫しました。
それで、もう逃げ場がなくなったということでですね。290立方メートルが無駄ゼニをかけてアメリカに搬出されたあと、小坂大臣が「何時までも引きずってはダメだ」という思いに至ったのか、残りの2710立方メートルをガラス加工して撤去するという提案をして、ようやくきょうを迎えることができました。
この間の片山知事の英断と支援には深く感謝しております。片山知事の強力なリーダーシップがなかったら今日の解決はなかったでしよう。と同時に、市民グループの皆さん方が私を公私にわたって終始支援していただいたおかげで、私もきょうこうやって皆さんの前で胸を張ってしゃべれることができ、皆さん方のおかげだと思って深く感謝しております。
なんか、まとらんような話を申し上げましたが、これで終わりにしたいと思います。
【編注】本稿は11月11日のウラン残土訴訟を支える会における報告をもとに、榎本益美さんご自身が加筆・修正を加えられたものです。
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